温泉の歴史が古いものであることを紹介してきたが、秋保もまた、古来からの様々な歴史を有する温泉である。 それは、古くは献上された秋保の湯で湯浴みをしたところ、患っていた小瘡がたちどころに完治し、「覚束(おぼつか)な 雲の上まで見てしかな 鳥のみゆけは跡形もなし」という御製(ぎょせい)の句を残したという欽明天皇の時代(6世紀)にまで遡ることができる。このとき秋保温泉は、天皇から「御湯(みゆ)」の称号を賜ったようであるが、全国でこの称号をもっているのは、「名取」(秋保)と「信濃(しなの)」(長野県別所)、「犬養(いぬかい)」(同野沢)だけであり、これらは「日本三御湯」と称されている(有馬・道後・秋保を「日本三御湯」とする説もあり)。また一方で、秋保は同じ宮城県の鳴子(なるこ)、福島県の飯坂(いいざか)と並んで「東北三名湯」にも数えられ、先に紹介した「諸國温泉功能鑑」にもその名を確認することができる。さらに、江戸時代の仙台藩の地誌『奥羽観蹟聞老志(おううかんせきもんろうし)』には、「名取御湯」(秋保温泉)の他、「直下(のぞき)橋」(覗橋)や「秋保瀑布」(秋保大滝)などが名所として記載されており、温泉の周辺も景勝地として有名であったことがわかる。秋保温泉は、その昔から全国的に名の知られた温泉だったのである。 では、この秋保温泉の具体的な状況はどのようなものであったのだろうか。昔の温泉の維持・管理の方法や宿屋の様子、さらには入湯客の数など、興味を惹かれるところであるが、その知名度に反して、古代や中世の温泉の詳しい状況はほとんどわからないのが現状である。従って、ここからは、遅くとも江戸時代初頭から温泉で宿屋を営んでいた佐藤勘三郎家(ホテル佐勘)の動向を中心に、江戸時代以降の秋保温泉の様子をみていくことにしよう。 |