温泉の状況に大きな変化がもたらされたのは、江戸時代の後期になってからであった。この時期は、全国的に旅行者の数が増加しつつあったと言われるが、佐藤家への年間の宿泊客数も、寛政12年(1800)には延べ約7500人、文化2年(1805)には同約1万人に及び、江戸時代の初期に比べると大幅な増加をみている。ただ、同時期の湯元村内の状況に目を向けると、同村は天明の飢饉で多数の死者を出すなど大きな被害を被っており、何らかの形で村の再建を図る必要に迫られていた。 そして、寛政13年、湯元村民は温泉を利用した村政の改革を決断し、村と佐藤家の間で一つの温泉約定(やくじょう)が結ばれることになった。その内容は、次の二つに大別することができる。 一、 村が志願する場所に新湯滝(新しい浴場)を普請(工事)する。 二、 湯銭収入のうち、湯守の収益分の3分の1を村の振興のため、村中で受納する。 「一」は、増加する利用者の便を図るための施策であろう。注目すべきは、「二」である。湯守の収益分というのは、入湯客から徴収した湯銭総額から藩への上納金を差し引いた金額であり、ここではその3分の1が村方に配分されることが取り決められているのである。これにより、温泉という、いわば観光資源からの収益に村の運営が依存する体制が確立されることとなった。「一」の内容も加味すると、ここでの湯元村民の狙いが、旅行者が落とす金銭での村運営の立て直しにあったことは明らかであり、これは、温泉があるという地域的特徴を前面に押し出した、一種の「村おこし」政策とも言えるものではなかっただろうか。 佐藤家にしてみれば、この政策の実現により、村方に配分する額だけ自家の収入が減少することになったのだが、村の置かれた状況を理解し、約定に同意したとみられる。このことによって、湯元村の行く末は佐藤家の経済動向にある程度左右されることにもなったのである。 |