
ここで、宿屋を含めた温泉運営の基本事項を可能な範囲で確認しておこう。
温泉約定成立時点で、佐藤家では宿泊者1人から湯銭40文、燈明銭(とうめいせん)3文、木銭(きせん)(宿賃)80文(1泊)を徴収している。宿屋は、後の新設分を含めて全て食料自弁の木賃(きちん)宿であった。また、温泉入浴中に急病人が発生した場合には、応急処置や医師・村役人への連絡等を湯元村民中で連携して行うなど、温泉運営を村全体でサポートする体制が確立されていた。ちなみに、土産物として木地物や塗物などが温泉周辺で無税で販売されていたようである。これらの品は、刈田郡の遠刈田(とおがった)や玉造郡の鳴子などから仕入れられていた。
さて、温泉約定成立後の秋保温泉の最も顕著な変化は、新設宿屋の登場である。元来、湯元村で宿屋を営業していたのは、基本的に湯守佐藤家1軒であったとみられるが、文化~文政年間(1804~30)に、同家が藩に願い出て許可を得、新たに4軒の宿屋の営業が開始された。温泉の宿屋は都合5軒となったのであり、多くの旅行客を受け入れる体制作りが進んでいったのである。湯銭については、各宿で徴収したものを佐藤家が集計し、一部を御役代として上納するという形をとることとなった。
そして、湯元村では、この後天保の飢饉に見舞われることになるのだが、このとき佐藤家は藩へ献金を行ったり、米の調達に奔走するなど村内外に渡って広範な窮民の救済活動を行った。天保7年(1836)、この功績により佐藤家が上納する御役代が全額免除となった。
ただ、温泉の運営は、必ずしも順風満帆に進んだわけではなかった。天保期以降、飢饉や不況の影響もあって宿屋への宿泊客は徐々に減少していったのである。
嘉永5年(1852)には、禁じられている旅籠(はたご)屋営業や客引き、さらには屋号の掲示を行った宿と佐藤家の間で争論が起こっている。これは、根本的には宿泊客をいかにして確保するかという集客をめぐる争いであり、佐藤家は物価高と入湯客減少で厳しくなっている温泉運営の実情を切々と訴えた。結局、不当な営業方法を改めて禁止する藩の裁決が下ったのだが、これは温泉全体が不況の波に呑まれつつあったことを示す象徴的な出来事であろう。
また、安政2年(1855)には、大地震で温泉が埋没して湧き湯が一時途絶えるという事態にも見舞われている。温泉の枯渇は佐藤家や村にとってまさに死活問題であり、当時の佐藤家当主寿右衛門(じゅえもん)はしばらく湯殿山(ゆどのさん)にこもって祈りを捧げ、後に湧き湯が復活したという。
温泉約定が成立したことで、村の各家にどれほどの経済的恩恵がもたらされたかは定かではないが、温泉の収益によって村が直ちに大きく潤うようなことはなかったと思われる。温泉による地域振興の道程は決して平坦ではなく、佐藤家と他の宿屋、さらには村民全体の協調なくしては温泉と村の円滑な運営は実現できなかったであろう。
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秋保・里センター脇にある楽寿園の碑。安政年間の地震で温泉の湧出が途絶えた際、その再興に尽力した湯守佐藤寿右衛門の功績と後年の公園設置について記す。
創建は明治44年(1911)。 |
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