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近代の秋保温泉

 幕末期に至る停滞期を経て、維新後の明治7年(1874)、地租改正により秋保温泉に地券が交付された。その写しによると、「温泉」(源泉)及び「宅地」(浴槽か)の持主の欄には「一村持」とあり、ここに温泉は湯元村で所有されることとなった。江戸時代においては、御役代という税を上納することでその用益権は認められていたものの、村や個人による所有権は認められていなかったことを考えれば、これは佐藤家と村にとってまさに画期的な出来事であっただろう。

 この温泉の村持実現と同時に、佐藤家は湯守を解かれることとなった。江戸時代の社会的・経済的地位の拠り所であった特権を失った佐藤家であるが、その後も周辺村落との合併(明治22年 〈1889〉)によって誕生した秋保村の村長や村会議員を務め、地域の発展に貢献した。

 秋保温泉全体のことに目を向ければ、温泉が観光地としての本格的な発展を遂げるのはこの近代以降のことであり、なかでも大正3年(1914)の、仙台市内の長町と秋保を結ぶ馬車軌道(同14年から鉄道)の開通が旅行客の増加に拍車をかけた。山間地に位置するという交通上の障害が克服されたことにより、入湯客は大正10年に2万余人、同13年には5万余人と飛躍的な増加をみている。そして、今日の秋保地域は、古代以来の由諸を有する温泉を中心に、秀麗な自然景観、さらにはキャンプ場、スポーツ公園などの遊楽施設を備えた一大レジャースポットとして多くの観光客を迎えるに至っている。

 しかし、忘れてはならないのは、温泉による地域振興が遥か江戸時代の昔から試みられてきたということである。近代以降の旅行客の増加や観光地としての環境整備に地域が柔軟に対応できたのは、それ以前から住民の間に観光による地域振興への志しがあった、つまりはそうした変化に対処できる住民の総意が築かれていたからである。このような社会のあり方が秋保の発展を陰で支えてきたと言っても決して過言ではないだろう。

 長きにわたり滔々(とうとう)と湧き続ける温泉。そして、それを活用し、維持管理してきた人々の暮らしの積み重ねの上に現在の秋保がある。秋保の歴史はまさに温泉の歴史なのである。

「秋保電気軌道 秋保温泉並ニ沿線名所案内」(部分)。大正14年(1925)。秋保電気軌道株式会社発行の沿線案内。左部の集落が秋保温泉街で、後方の山麓には「大遊園地」の建設が進められている。川を挟んで北側に道路、南側に宿泊施設が位置するという光景は今も昔も変わっていない(仙台市民図書館蔵)。

参考文献/秋保町史本編
協力/仙台市博物館


かつての秋保の風景。右奥の建物が佐勘である(ホテル佐勘写真提供)。
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